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乃木希典 殉死 写真 8

乃木 希典(のぎ まれすけ、嘉永2年11月11日(1849年12月25日) - 1912年(大正元年)9月13日)は、日本の武士(長府藩士)、陸軍軍人、教育者。日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇の後を慕って殉死したことで国際的にも著名である。階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係も務めた。「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれることも多く、「乃木神社」や「乃木坂」に名前を残している。, 幼名は無人(なきと)で、その後、源三と改め、頼時とも称した[1][注釈 1]。さらに後、文蔵、次いで希典と名を改めた。また、出雲源氏佐々木氏の子孫と称したことから「源希典」との署名もよく用いた[3][注釈 2]。, 嘉永2年11月11日(1849年12月25日)、長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木希次(馬廻、80石)と壽子(ひさこ、「壽」とする文献もある[5])との三男として、江戸の長府藩上屋敷(毛利甲斐守邸跡、現・東京都港区六本木)に生まれた。希典の長兄および次兄は既に夭折していたため世嗣となる。, 幼名は無人(なきと)。兄たちのように夭折することなく壮健に成長して欲しい、という願いが込められている[5]。, 父・希次は江戸詰の藩士であったため、無人は10歳までの間、長府藩上屋敷において生活した。, 幼少時の無人は虚弱体質であり、臆病であった。友人に泣かされることも多く、無人の名にかけて「泣き人」(なきと)とあだ名された。, 父は、こうした無人を極めて厳しく養育した。例えば、「寒い」と不平を口にした7歳の無人に対し、「よし。寒いなら、暖かくなるようにしてやる。」と述べ、無人を井戸端に連れて行き、冷水を浴びせたという。この挿話は、昭和初期の日本における国定教科書にも記載されていた[6]。, 詳しい時期は不明だが、無人は左目を負傷して失明している。その原因として、一説には、ある夏の日の朝、母の壽子が蚊帳を畳むため寝ている無人を起こそうとしたが、ぐずぐずして起きなかったので、「何をしている」とたしなめ、畳みかけた蚊帳で無人の肩を叩いた際、蚊帳の釣手の輪が無人の左目にぶつかってしまったことによるという。後年、乃木は、左目失明の原因を明らかにしたがらなかった。失明の経緯を明らかにすれば母の過失を明らかにすることになるため、母も気にするだろうから他言したくない、と述べたという[7][注釈 3]。, 安政5年11月(1858年12月)、父・希次は、藩主の跡目相続に関する紛争に巻き込まれ、長府(現・山口県下関市)へ下向するよう藩から命じられた上、閉門および減俸の処分を与えられた。無人もこれに同行し、同年12月(1859年1月)、長府へ転居した[8]。, 安政6年4月(1859年5月)、11歳になった無人は、漢学者の結城香崖に入門して漢籍および詩文を学び始めた。また、万延元年1月(1860年2月)以降、流鏑馬、弓術、西洋流砲術、槍術および剣術なども学び始めた[8]。, しかし、依然として泣き虫で、妹にいじめられて泣くこともあった。文久2年6月20日(1862年7月16日)、集童場に入った。同年12月(1863年2月)、元服して名を源三と改めたが、依然、幼名にかけて「泣き人」と呼ばれ、泣き虫であることを揶揄された[8]。, 元治元年3月(1864年4月)[注釈 4]、16歳の源三は、学者となることを志して父・希次と対立した後、出奔して、長府(現・山口県下関市)から70km以上離れた萩(現・同県萩市)まで徒歩で赴き、兵学者の玉木文之進への弟子入りを試みた。玉木家は乃木家の親戚筋であった。文之進は、源三が希次の許しを得ることなく出奔したことを責め、武士にならないのであれば農民になれと述べて、源三の弟子入りを拒絶した。しかし結局、源三は玉木家に住むことを許され、文之進の農作業を手伝う傍ら、学問の手ほどきを受けた[9][10]。, 元治元年9月(1864年10月)から、源三は萩藩の藩校・明倫館の文学寮に通学することとなった。一方で、同年11月(同年12月)から一刀流剣術も学び始めた[注釈 5]。一刀流については、明治3年1月(1870年2月)に、技術習得を意味する「目録伝授」されている。, 元治2年(1865年)、源三は集童場時代の友人らと盟約状を交わして、長府藩報国隊を組織した[11]。, 慶応元年(1865年)、第二次長州征討が開始されると、同年4月(同年5月)、萩から長府へ呼び戻された。源三は長府藩報国隊に属し、山砲一門を有する部隊を率いて小倉口(現・山口県下関市)での戦闘(小倉戦争)に加わった。この際、奇兵隊の山縣有朋指揮下で戦い、小倉城一番乗りの武功を挙げた[12]。しかし、そのまま軍にとどまることはなく、慶応2年(1866年)、長府藩の命令に従い、明倫館文学寮に入学(復学)した[11]。, その後、報国隊は越後方面に進軍して戦闘を重ねたが、これに参加しなかった。明倫館在籍時に講堂で相撲を取り、左足を挫いたことから、藩が出陣を許さなかったのである[13][14][15]。 萬人齊仰爾靈山 (万人斉(ひと)しく仰ぐ爾霊山), 皇師百萬征強虜 (皇師百萬強虜を征す) 源三はなんとしても出陣しようと、脱藩を決意して馬関(現・山口県下関市)まで出たが、追捕され、明倫館に戻された[16]。, 慶応4年1月(1868年2月)、報国隊の漢学助教となるが、11月(同年12月)には藩命により、伏見御親兵兵営に入営してフランス式訓練法を学んだ[17]。これは、従兄弟であり報国隊隊長であった御堀耕助が、源三に対し、学者となるか軍人となるか意思を明確にせよと迫り、源三が軍人の道を選んだことから、御堀が周旋した結果発令されたという[18]。, 明治2年7月(1869年8月)、京都河東御親兵練武掛となり、次いで、明治3年1月4日(1870年2月4日)、豊浦藩(旧長府藩)の陸軍練兵教官[19][20]として、馬廻格100石を給された。, そして、明治4年11月23日(1872年1月3日)、黒田清隆の推挙を受けて大日本帝国陸軍の少佐に任官し、東京鎮台第2分営に属した[21]。当時22歳の源三が少佐に任じられたのは異例の大抜擢であった[22][注釈 6]。乃木は少佐任官を喜び、後日、少佐任官の日は「生涯何より愉快だった日」であると述べている[24][25]。, 明治4年12月(1872年1月)、正七位に叙された源三は、名を希典と改めた[26]。その後、東京鎮台第3分営大弐心得[注釈 7]および名古屋鎮台大弐を歴任し、明治6年(1873年)3月、越前護法大一揆鎮圧に出動する[28]。同年明治6年6月25日には従六位に叙される[29][26]。, 明治7年(1874年)5月12日、乃木は家事上の理由から辞表を提出して4か月間の休職に入るが、9月10日には陸軍卿伝令使となった。この職は、陸軍卿(当時は山縣有朋)の秘書官または副官といった役割であった。なお、この時期の乃木は、まっすぐ帰宅することはほとんどなく、夜ごと遊興にふけり、山縣から説諭を受けるほどだった[30]。, 明治8年(1875年)12月、熊本鎮台歩兵第14連隊長心得に任じられ、小倉(現・福岡県北九州市小倉北区)に赴任した。不平士族の反乱に呼応する可能性があった山田頴太郎(前原一誠の実弟)が連隊長を解任されたことを受けての人事であった[31][32]。連隊長心得就任後、実弟の玉木正誼(たまき まさよし、幼名は真人。当時、玉木文之進の養子となっていた)がしばしば乃木の下を訪問し、前原に同調するよう説得を試みた。しかし乃木はこれに賛同せず、かえって山縣に事の次第を通報した[33][32]。, 明治9年(1876年)、福岡県秋月(現・同県朝倉市秋月)で旧秋月藩士の宮崎車之助らによる秋月の乱が起きると、乃木は、他の反乱士族との合流を図るため東進する反乱軍の動向を察知し、秋月の北に所在する豊津(現・同県京都郡みやこ町豊津)においてこれを挟撃して、反乱軍を潰走させた[34]。, 秋月の乱の直後、山口県萩(現・同県萩市)で萩の乱が起こった。この乱の最中、弟の正誼は反乱軍に与して戦死し、学問の師である文之進は自らの門弟の多くが反乱軍に参加したことに対する責任をとるため自刃した[35][36]。萩の乱に際し、乃木は麾下の第14連隊を動かさなかった。これに対し福原和勝陸軍大佐は乃木に書簡を送り、秋月の乱における豊津での戦闘以外に戦闘を行わず、大阪鎮台に援軍を要請した乃木の行為を批判し、長州の面目に関わると述べて乃木を一方的に非難した。対して乃木は小倉でも反乱の気配があったことなどを挙げて連隊を動かさなかったことの正当性を説明したところ、福原も懸念が氷解し[37][注釈 8]、乃木に激励の手紙を出している[39]。, 明治10年(1877年)2月5日、西郷隆盛は私学校における幹部会議で挙兵を決断する。この情報はいち早く政府側にも伝わったらしく、翌6日の乃木の日誌に陸軍卿山県有朋より鹿児島にて暴動の形跡があり、警備の内示があった事が記述されている。翌7日には歩兵1個中隊の長崎分派の電命があり11日早朝に出発させているが長崎県令から更なる兵力増加の要請が入る。乃木は薩軍に海上から長崎に侵攻する能力はないと判断しこれを拒絶している[40]が、一方で薩軍の北上を警戒し久留米に早期に兵力を出すよう熊本鎮台に要請している[41]。, 2月14日、鎮台司令長官谷干城の命を受けて小倉から熊本に到着し作戦会議に参加、会議では鎮台全兵力をもって籠城する事に決し、乃木は小倉の歩兵第十四連隊を率いるために16日に熊本を出発し17日夜に福岡に着、そこで薩軍の鹿児島出発の報を受ける。2月19日、乃木は小倉から前進してくる第十四連隊の各隊を掌握しつつ福岡県久留米(現・同県久留米市)に、21日夜には南関に到達した[42][注釈 9]。2月22日夕刻、熊本県植木町(現・同県熊本市植木町)付近において薩軍との戦闘に入った。乃木の連隊は主力の出発が遅れた上に強行軍を重ねていたため薩軍との戦闘に入った当時、乃木が直率していた将兵は200名ほどに過ぎなかった。これに対し、乃木を襲撃した西郷軍は400名ほどだった[43]。乃木は寡兵をもってよく応戦し3時間ほど持ちこたえたが、乃木はこの薩軍を応援の政府軍主力を迎撃に出た薩軍の前衛と考え、連隊だけでこれらを突破して熊本城に入城するのは困難と判断。現在地の死守も地形的に難しく各個撃破される恐れがあったので、午後9時頃後方の千本桜まで随時後退することとした[44]。その際に、連隊旗を保持していた河原林雄太少尉が討たれ薩軍の岩切正九郎に連隊旗を奪われてしまう。薩軍は、乃木隊から奪取した連隊旗を見せびらかして気勢を上げたという[45][46][47]。翌23日には木葉付近で薩軍と交戦しその前進を阻んだが第三大隊長の吉松速之助少佐が戦死している。この後連隊は更に菊池川右岸の石貫まで後退するが、薩軍を引き付けた事で政府軍の進出を援護する事となり、早くも25日には先方部隊が戦場に到達、歩兵第十四連隊単独での薩軍との死闘は終焉を迎えた[48]。, 2月25日夜、歩兵第十四連隊は第二旅団(旅団長:三好重臣少将)の指揮下に入る。26日には第一旅団と共に政府軍は攻勢に転じ、第十四連隊は前衛として出撃、安楽寺山付近の薩軍を撃破し田原坂の上まで進出する。しかし三好旅団長は薩軍の反撃を警戒して乃木に後退を指令、乃木は田原坂確保の必要性を強く意見具申するが旅団長の厳命により田原坂を放棄し石貫まで後退した[49]。田原坂を手放したことで同地は再び薩軍が占領、政府軍は3月20日に再占領するまで17日間の日数と約3000人の犠牲を払い、一日平均銃弾30万発、砲弾約1000発を消費する事になる[50][注釈 10]。, 27日、薩軍は攻勢に転じ、左翼より桐野利秋指揮の3個小隊約600名が山鹿方面より、中央に篠原国幹、別府晋介率いる6個小隊約1,200名が植木、木葉方面より、左翼より村田新八率いる5個小隊約1,000名が吉次・伊倉方面よりそれぞれ進撃し政府軍と交戦する(高瀬の戦い)。乃木は桐野率いる左翼軍と交戦し側面を衝いた野津鎮雄少将率いる第一旅団と共にこれを撃破、桐野は他の薩軍部隊に無断で左翼軍を後退させた結果薩軍全体の総崩れとなり、西南戦争最大の野戦となる高瀬の戦いは政府軍の勝利に終わる[51]。この戦いは両軍に大きな損害を与え、薩軍では西郷の末弟西郷小兵衛が戦死する。乃木も負傷入院となり前線から退き久留米の軍団病院に入院する[52]。それでも乃木は3月19日に病院を脱走し前線に復帰、翌20日には田原坂は陥落し乃木は21日に第一旅団参謀兼務を命じられる[53]。その後も乃木は、部下の制止を振り切って連隊を指揮し、重傷を負って野戦病院に入院したにもかかわらず、なお脱走して戦地に赴こうとしたために「脱走将校」の異名をとった。この時の負傷により、左足がやや不自由となる[54][55]。, 4月18日、乃木は薩軍の包囲から解放された熊本城に入場、22日付で中佐に進級する[53]。乃木は連隊旗喪失を受けて官軍の実質的な総指揮官であった山縣に対し、17日付けの「待罪書」を送り、厳しい処分を求めた。これに対し、山縣からは、戦闘中での事例であり、不可抗力であるとして不問に付す旨の指令書が返信された[注釈 11]。この時乃木は自責の念を抱いて幾度も自殺を図ろうとし、熊本鎮台参謀副長だった児玉源太郎少佐が自殺しようとする乃木を見つけ、乃木が手にした軍刀を奪い取って諫めたという[57][54][注釈 12]。, 中佐に進級した4月22日、乃木は熊本鎮台幕僚参謀となって第一線指揮から離れた[注釈 13]。以後は補給などの後方業務を担当するが、8月の可愛嶽付近の戦闘では直接第一線の指揮を執っている。, 明治11年(1878年)1月25日、乃木は東京の歩兵第一連隊長に抜擢される。熊本から故郷の萩を経て2月14日に着任した乃木は、10月27日に旧薩摩藩藩医の娘・お七(結婚後に「静子」と改名した。「静」ともいわれる。)と結婚する。秋月の乱に始まる一連の不平士族の鎮圧で実弟など親族を失った乃木は東京に移ってから柳橋や新橋、両国の料亭への放蕩が激しくなり、静子との祝言当日も料理茶屋に入り浸り、祝言にも遅刻したという。乃木の度を超した放蕩は、ドイツ留学まで続いた[59][47]。その放蕩ぶりは「乃木の豪遊」として周囲に知れ渡ったという[60]。, 歩兵第一連隊長時代の乃木は西南戦争の経験から白兵戦術よりも射撃戦術の向上を図り部下に訓練を課した。しかし当時射撃練習場に適した場所は深川越中島にある旧式かつ手狭なものが1か所だけであり、当時兵営が赤坂にあった第一連隊は訓練に支障が出ていた。そこで乃木は新たな実弾射撃場の設立を意見具申、自ら率先して設営工事を手伝い、明治14年に青山射的場を完成させた[61]。, またこの頃の話として乃木は他隊との合同訓練ではいつも正面攻撃しか行わず、歩兵第二連隊長として佐倉(千葉県)にいた児玉源太郎との合同訓練では奇襲に敗れ児玉に揶揄われたという話も伝わっている[注釈 14]。, 明治12年(1879年)12月20日に正六位に叙され、翌年4月29日に大佐へと昇進し、6月8日には従五位に叙された[62]。, 明治16年(1883年)2月5日に東京鎮台参謀長に任じられ、明治17年(1885年)5月21日には最年少で少将に昇進し、歩兵第11旅団長に任じられた。また、7月25日には正五位に叙された[62]。, この間、長男・勝典(明治12年(1879年)8月28日生)および次男・保典(明治14年(1881年)12月16日生)がそれぞれ誕生している[62]。, 明治20年(1887年)1月から明治21年(1888年)6月10日まで、乃木は政府の命令によって、同じく陸軍少将の川上操六とともにドイツ帝国へ留学した[63]。乃木は、ドイツ軍参謀総長モルトケから紹介された参謀大尉デュフェーについて、後に第3軍で部下となる伊地知幸介中尉による通訳を介し『野外要務令』に基づく講義を受けた。次いで乃木は、ベルリン近郊の近衛軍に属して、ドイツ陸軍の全貌について学んだ[64]。ドイツ留学中、乃木は軍医として同じく留学中の森林太郎とも親交を深め、その交友関係は以後、長く続いた[65]。, 帰国後、乃木は復命書を陸軍大臣・大山巌に提出した。この復命書は、形式上、川上と乃木の連名であったが、川上は帰国後に病に伏したため筆を執れず、そのほとんどを乃木が単独で書いた。その内容は、軍紀の確保と厳正な軍紀を維持するための綱紀粛正・軍人教育の重要性を説き、軍人は徳義を本分とすべきであることや、軍服着用の重要性についても記述されていた[66][67]。, その後の乃木は、復命書の記述を体現するかのように振る舞うようになった。留学前には足繁く通っていた料理茶屋・料亭には赴かないようになり、芸妓が出る宴会には絶対に出席せず、生活をとことん質素に徹した。平素は稗を食し、来客時には蕎麦を「御馳走」と言って振る舞った[68]。また、いついかなる時も乱れなく軍服を着用するようになった[69]。, こうした乃木の変化について、文芸評論家の福田和也は、西南戦争で軍旗を喪失して以来厭世家となった乃木が、空論とも言うべき理想の軍人像を体現することに生きる意味を見いだしたと分析している[70]。一方、乃木に関する著書もある作家の松田十刻は、上記の「復命書」で軍紀の綱紀粛正を諫言した以上、自らが模範となるべく振舞わねばならないと考えての結果という分析をしている[71]。, 乃木は第11旅団(熊本)に帰任した後、近衛歩兵第2旅団長(東京)を経て、歩兵第5旅団長(名古屋)となった。しかし、上司である第3師団長・桂太郎とそりが合わず、明治25年(1892年)、病気を理由に2度目の休職に入った。休職中の乃木は、栃木県の那須野に購入した土地(現・同県那須塩原市石林、後の那須乃木神社)で農業に勤しんだ。これより後、乃木は休職するたびに那須野で農業に従事したが、その姿は「農人乃木」と言われた[72]。, 明治25年(1892年)12月8日、10か月の休職を経て復職し、東京の歩兵第1旅団長となった。明治27年(1894年)8月1日、日本が清に宣戦布告して日清戦争が始まると、10月、大山巌が率いる第2軍の下で出征した[73]。, 乃木率いる歩兵第1旅団は、9月24日に東京を出発し、広島に集結した後、宇品港(現・広島港、広島県広島市南区)を出航して、10月24日、花園口(現・中華人民共和国遼寧省大連市荘河市)に上陸した。11月から乃木は、破頭山、金州、産国および和尚島において戦い、11月24日には旅順要塞をわずか1日で陥落させた[74]。, 明治28年(1895年)、乃木は蓋平・太平山・営口および田庄台において戦った。特に蓋平での戦闘では日本の第1軍第3師団(司令官は桂太郎)を包囲した清国軍を撃破するという武功を挙げ、「将軍の右に出る者なし」といわれるほどの評価を受けた[75]。日清戦争終結間際の4月5日、乃木は中将に昇進して、宮城県仙台市に本営を置く第2師団の師団長となった[74][注釈 15]。また、8月20日には男爵として、華族に列せられることとなった。, 明治28年(1895年)5月、台湾民主国が独立を宣言したことを受けて日本軍は台湾征討(乙未戦争)に乗り出した。なお、同年4月に日清間で結ばれた下関条約により、台湾は日本に割譲されている。乃木率いる第2師団も台湾へ出征した[77]。, 明治29年(1896年)4月に第2師団は台湾を発ち、仙台に凱旋したが、凱旋後半年ほど経過した10月14日、乃木は台湾総督に任じられた[78]。乃木は、妻の静子および母の壽子を伴って台湾へ赴任した。乃木に課せられた使命は、台湾の治安確立であった[79]。, 乃木は、教育勅語の漢文訳を作成して台湾島民の教育に取り組み、現地人を行政機関に採用することで現地の旧慣を施政に組み込むよう努力した。また日本人に対しては、現地人の陵虐および商取引の不正を戒め、台湾総督府の官吏についても厳正さを求めた[80]。, しかし、乃木は殖産興業などの具体策についてはよく理解していなかったため、積極的な内政整備をすることができなかった。次第に民政局長・曾根静夫ら配下の官吏との対立も激しくなり、乃木の台湾統治は不成功に終わった[81]。, 明治30年(1897年)11月7日、乃木は台湾総督を辞職した。辞職願に記載された辞職理由は、記憶力減退(亡失)による台湾総督の職務実行困難であった。, 乃木による台湾統治について、官吏の綱紀粛正に努め自ら範を示したことは、後任の総督である児玉源太郎とこれを補佐した民政局長・後藤新平による台湾統治にとって大いに役立ったと評価されている[82]。また、台湾の実業家である蔡焜燦は「あの時期に乃木のような実直で清廉な人物が総督になって、支配側の綱紀粛正を行ったことは、台湾人にとってよいことであった」と評価する[83][84]。, 台湾総督を辞任した後休職していた乃木は、明治31年(1898年)10月3日、香川県善通寺に新設された第11師団長として復職した。, しかし、明治34年(1901年)5月22日、馬蹄銀事件[注釈 16]に関与したとの嫌疑が乃木の部下にかけられたことから、休職を申し出て帰京した。ただし、表向きの休職理由は、リウマチであった[85]。乃木は計4回休職したが、この休職が最も長く、2年9か月に及んだ。, 休職中の乃木は、従前休職した際と同様、栃木県那須野石林にあった別邸で農耕をして過ごした。農業に勤しみつつも、乃木はそれ以外の時間はもっぱら古今の兵書を紐解いて軍事研究にいそしみ、演習が行われると知らされれば可能な限り出向き、軍営に寝泊まりしてつぶさに見学してメモをとり、軍人としての本分を疎かにはしなかった[86]。, 日露戦争開戦の直前である明治37年(1904年)2月5日、動員令が下り、乃木は留守近衛師団長として復職した。しかし、乃木にとって「留守近衛師団長」という後備任務は不満であった[87]。, 5月2日、第3軍司令官に任命された。乃木はこれを喜び、東京を出発する際に見送りに来た野津道貫陸軍大将に対し、「どうです、若返ったように見えませんか? ども白髪が、また黒くなってきたように思うのですが」と述べている[88][89]。同年6月1日、広島県の宇品港を出航し、戦地に赴いた。[90]。, 乃木が日本を発つ直前の5月27日、長男の勝典が南山の戦いにおいて戦死した。乃木は、広島で勝典の訃報を聞き、これを東京にいる妻・静子に電報で知らせた。電報には、名誉の戦死を喜べと記載されていたといわれる。勝典の戦死は新聞でも報道された[92]。, 乃木が率いる第3軍は、第2軍に属していた第1師団および第11師団を基幹とする軍であり、その編成目的は旅順要塞の攻略であった[93]。, 明治37年(1904年)6月6日、乃木は遼東半島の塩大澳に上陸した。このとき乃木は児玉源太郎らと共に大将に昇進し、同月12日には正三位に叙せられている[90][注釈 17]。, 第3軍は、6月26日から進軍を開始し、8月7日に第1回、10月26日に第2回、11月26日に第3回の総攻撃を行った[注釈 18]。

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